合格しました

2011年10月29日(土) 23時25分
9月に受けた国内旅行業務取扱管理者試験の合格証が本日届きました。

試験直後のブログにも書きましたが、現在の合宿免許斡旋の仕事に就いて10年という節目の年に、何か自分の記念にと考えたのが、この勉強をしようと思ったきっかけでした。

勉強を始めてすぐに、あの東日本大震災が発生しました。

その後、いつのまにか単に資格の取得だけではなく、知識を身につけること自体に色々な意味を感じるようになっていました。

自分にとって何かのタイミングだったのでしょう。

この資格を取得したことで、自分に何ができるのか今は分かりませんが、次のステップへ進むうえでのきっかけになることは確かだと思います。

最後に、
応援くださった方々に、この場を借りてお礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

部長Y


セ・リーグレギュラーシーズン最終戦

2011年10月26日(水) 0時02分
10/25神宮球場でセ・リーグのレギュラーシーズン最終戦となるヤクルト×広島を観戦した。

試合は広島マエケンの一人舞台。

8回を過ぎ、未だノーヒットノーランのヤクルトに、ライト側外野席にどんよりとした暗いムードが漂う。

ついに9回ワンアウト。

しかしここでドラマが待っていた。

代打・藤本の初ヒットを足がかりに、4番畠山の内野ゴロで追いつき、
代打・福地のレフト前ヒットでサヨナラ!

ドワ〜

狂喜乱舞のライト側スタンド。

元阪神の藤本から始まった逆転サヨナラ劇ということもあり、六甲おろしまで飛び出すお祭り騒ぎとなった。

試合後、最終戦セレモニーと石井弘寿投手の引退セレモニーが行われた。


神宮球場名物のハイボール&ウインナーメガ盛りも今日が食べ納め。


先日引退表明し帰国したガイエルからのメッセージ放映された。


劇的勝利で、今季のレギュラーシーズン最終戦を締めくくったヤクルト。今週末から、いよいよ巨人とのクライマックスシリーズファーストステージが始まる。


石井投手は、2002年に最優秀中継ぎ投手に選ばれるなど、一時代を築いたリリーフ左腕。この日は、7回に入団時の担当スカウトだった小川監督の前で、現役最後の投球を三振で収めた。

明治のスーパーウーマン大山捨松E

2011年10月25日(火) 1時00分
日清・日露の両戦争で、大山巌は陸軍の最高責任者である満州軍総司令官になった。

捨松はその妻として、銃後で皇族や華族の夫人や令嬢を率い、寄付金集めや包帯作りなどの婦人会活動に時間を割くかたわら、アメリカ留学中に取得した看護婦の資格を生かし、日本赤十字社で戦傷者の看護もこなした。

そして、日露戦争の際は、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを世界中に訴えるため「ロンドンタイムス」やアメリカの週刊誌などに寄稿し、後の講話条約を有利にした。

アメリカの新聞は、ロシア軍を撃破し続ける日本の司令官の夫人が、アメリカ育ちで名門ヴァッサー大学出身であることを連日報道、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立った。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用された。

どれもこれも当時としては画期的なことであり、近代日本におけるチャリティー企画やボランティア活動の草分けは、この大山捨松と言われる。

また、捨松は日本赤十字社に働きかけ、篤志看護婦人会を発足させ、2年後には救護員養成所も開校。のちに愛国婦人会理事や、赤十字篤志看護会理事にも就任している。


女子教育においては、結婚の翌年、伊藤博文からの要請で、華族女学校 (現:学習院女学部) の設立準備委員になり、アメリカ留学を共にした津田梅子や親友のアリス・ベーコンらを教師として招聘するなど尽力する。しかし、華族女学校が開校すると捨松は失望する。授業は旧態依然で、儒教的道徳に沿った男尊女卑の内容だったからである。

明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾 (現:津田塾大学) を設立した際、捨松は顧問として参加する。アメリカに帰国していたアリス・ベーコンを再び招聘し、伊藤博文の時の失望した経験から、自分たちの手で理想とする学校づくりを行った。

生徒数はわずか10人からのスタートだった。

女子英学塾は、教育方針に制限が加えられないように、どこからも金銭的な援助は受けなかった。しかし、捨松が津田塾大学の開祖といわれるように、捨松の援助なくしては、生涯独身であった津田が成功を収めることなどできなかったのである。捨松は大山夫人という立場上、直接教師として教壇には立てなかったが、のちに理事や同窓会長にも就くなど、学校の運営面で女子教育に貢献した。
 

捨松は、大山巌との間に2男1女をもうけ、巌の先妻との女児3人と合計6人の子供の母親となった。2男5女の家に生まれ、ベーコン家の14人の中で成長した捨松にとって、子育ては大変ながらあまり苦にしなかったようだ。
 
子どもたちに対し、捨松が強い意志をあらわすエピソードがある。
欧州好きで知られる巌が、自邸を新築した際、全てドイツ風してしまったときのこと。
多感な時期をアメリカで過ごし、帰国後に苦労した経験を持つ捨松は、子供たちが日本の慣習を知らずに育つのが心配で、すべての子供部屋を和風に直した。

長男の高は海軍に進んだが、軍艦の事故で22歳で亡くなるという不幸があった。
跡取りとなった次男の柏は公家・近衛家の長女、武子と結婚した。
武子の兄は、のちの総理大臣・近衛文麿である。「不如帰」のモデルとなった家に嫁ぐ武子に周囲は心配したが、捨松は若い嫁を暖かく迎え、我が娘のようにかわいがった。

大正5年(1916年)、柏・武子夫妻に男子が誕生した。大山家の跡取りの誕生を見届け、その3ヶ月後に大山巌は病没した。

以後、捨松は公の場にほとんど出ることなく、孫を相手に穏やかな日々を過ごしていたが、大正8年(1919年)、津田梅子が病気で倒れ女子英学塾が混乱していると聞き、自らが乗り込み陣頭指揮をとる。

これが、捨松にとって最後の仕事となった。

混乱していた女子英学塾の運営を切り盛りし、梅子に代わる新塾長を決め、就任を見届けた翌日に、60年の波乱に満ちた生涯を閉じた。

原因は、当時世界中で大流行したスペイン風邪、現代で言うインフルエンザだった。

捨松は、晩年、開墾にあたった栃木県西那須野に夫の巌とともに眠っている。


会津と薩摩、この怨念とも言うべき両藩のふたりが運命の糸に導かれながら、ひとつに結ばれていく・・・

藩意識を超え、近代国家を建設しようする日本にとって、この夫婦は、国家勃興のシンボルとしての役割を担っていた。

明治〜大正という封建的で男尊女卑が横行する時代にあって、女性が自立した存在となれる社会の実現を目指し奮闘する捨松。

幾多の逆境や困難を乗り越え、そのたびに活路を開いてきた大山捨松という、福島出身のスーパーウーマンがいたことを覚えておいてほしい。


会津武家屋敷展示写真より

明治のスーパーウーマン大山捨松D

2011年10月24日(月) 1時33分
明治16年(1883年)11月8日、大山巌と山川捨松の婚儀が厳かに行われた。

そして、その1ヵ月後、完成したばかりの鹿鳴館で大山夫妻は盛大な結婚披露宴を催した。

千人を超える招待者でごった返す披露宴。
普通の新婦なら気が動転して会話もままならないような状況の中、捨松は招待客の中に入り込み、率先して話しかけをしていたという。

当時の明治政府は、条約改正交渉を有利に進めようとの欧化政策から、そのための宴席外交を行える施設の必要性を痛感していた。そうして誕生したばかりの鹿鳴館で、大山夫婦は披露宴を行うという大役をこなした。

その後、明治政府は諸外国の外交官を鹿鳴館に招き、連日のように夜会や舞踏会を開いた。高官の中には、芸者や娼妓を正妻にして対応したものも多かったが、列強の外交官たちは「サルまね」と揶揄し陰では嘲笑していた。
 
そのような中、唯一水を得た魚のように生き生きしていたのが捨松だった。

12歳の時から身につけていた社交ダンスのステップは堂に入ったものだった。日本人離れした長身をフランス製のワインカラーのビロードの服で包み、アメリカ仕込みの軽やかなステップを踏み、英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑した。

こうして華やかな鹿鳴館デビューを飾った捨松は、その美貌と華麗な立ち居振る舞いで、外国人からも認められる鹿鳴館の華となっていく。

しかし、捨松は浮かれていたわけではなかった。官費留学生だったことを片時も忘れたことがなかったという。日本の欧化政策の役に立ち、婦人の地位向上のために貢献したい。そのためならば、毎晩でも夜会に出る。その一念、あふれる愛国心のゆえに、捨松はあえて「鹿鳴館の華」になったといわれている。

捨松の活動は、舞踏会だけではない。

ある時、有志共立東京病院 (現:東京慈恵会医科大学病院) を見学した捨松は、米国のような看護婦の姿がなく、女性の病人の世話すら男の雑用係が行っている現場を見てショックを受ける。

院長の高木兼寛に出向き、キメ細かさを持っている女性の方が看護に向いていると説く。

高木も英国のセントトーマス病院に留学した経験があり、看護婦の必要性は早くから認めていたが資金がなく、看護婦を養成する学校がつくれない現実を告げる。

それならばと、捨松は鹿鳴館において日本初のチャリティーバザーを開催し、たった3日間で鹿鳴館がもう一つ建つぐらいの莫大な収益をあげた。そしてその全額は、有志共立東京病院に寄付され、この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立された。

捨松は行動力も素晴らしい女性だった。
政府の要人と結婚したことで、捨松自身が直接かかわることは出来なくなっていたが、女子教育への熱意は冷めることなく、生涯にわたって裏方として支援を続けていった。

鹿鳴館時代は歴史的評価では、実を結ばない「あだ花」とされるが、捨松は本物の花だった。

明治のスーパーウーマン大山捨松Eに続く。

明治のスーパーウーマン大山捨松C

2011年10月23日(日) 12時08分
捨松が再び日本の地を踏んだのは船出してから11年目の明治15年(1882年)暮れのことだった。

しかし、北海道開拓使はすでに廃止されていて何の仕事もなかった。

捨松がアメリカで過ごした11年間は、今でいえば小学校高学年から大学卒業までの期間であり、個人の人格や言語が完成される時期であるが、ものの考え方から物腰まで、すべてがアメリカ式になっていた捨松は、日本語もほとんど忘れていた。

そんな捨松の受け皿となるような職場は、まだ日本にはなかった。
頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態で、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけで、「アメリカ娘」と陰口まで叩かれる始末だった。

新知識を身につけて故国に錦を飾り、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと意気揚々と帰国した捨松だったが、命がけとも言える10年の留学の結果、彼女を待っていたのは失望以外のなにものでもなかった。

また、娘は10代に嫁に行く時代において、23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」年齢にあった。

この頃アリス・ベーコンに書き送った手紙で、「20歳を過ぎたばかりなのにもう売れ残りですって。想像できる? 母はこれでもう縁談も来ないでしょうなんて言っているの」と愚痴をこぼしている。

適齢期の女性が結婚をしないで仕事をするなど考えられない時代だった。

「もう縁談もこないでしょう」と言った捨松だったが、縁談はいくつかあった。その中で最も熱心だったのが、薩摩出身の陸軍卿(大臣)・大山巌だった。西郷隆盛の従兄弟で、その肖像画のモデルとなった人物である。

大山には沢子という先妻がいたが、3人の幼い娘を残して病死してしまった。公務で多忙な彼にとって、娘を託せる後妻を早く迎える必要があった。

後妻探しに特に熱心だったのが先妻の父で、娘たちの祖父でもある吉井友実だった。

大山の将来に期待をかけていた吉井は、我子同然に可愛がっていたこの婿のために、後添えとなる女性を探し求めはじめる。そこで白羽の矢が立ったのが捨松だった。

その名を聞いた大山が、あるパーティの席上で、そっと捨松を見たところ一目で気に入ってしまった。過去3度の海外留学経験もあり自他共に認める西洋かぶれだった大山は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる捨松の洗練された美しさにすっかり心を奪われてしまったのである。

当時の日本陸軍はフランス式兵制からドイツ式兵制への過渡期という難しい時期にあった。フランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、列強の外交官や武官たちとの膝詰め談判に自らあたることのできる、陸軍卿としては当時最適の人材だったが、この時代の外交の大きな部分を占めていたのは夫人同伴の夜会や舞踏会だった。アメリカの名門大学を成績優秀で卒業しフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は、夫人として当時最適の候補だった。


吉井友実から縁談の意向を伝えられた山川家は驚いた。山川家は会津藩の家老だった。

今でも福島(会津)の一部には、鹿児島(薩摩)山口(長州)に対して、戊辰戦争における恨みが消えずに残っている。それがまだ明治16年のことである。まして大山巌は砲兵隊長として、会津攻撃に参加している上、今や薩摩閥のリーダー的存在であった。

当然ながら山川家の家長の浩は猛反対で、縁談話を即座に断る。

すると今度は大山の従兄弟で西郷隆盛の弟の従道を山川家に遣わして説得にあたらせた。「山川家は賊軍の家臣ゆえ」という浩の逃げ口上に、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内でごわす」という従道の前では通じなかった。

この従道が連日のように、しかも時には夜通しで説得にあたるうちに大山の誠意が山川家にも伝わり、何がなんでも反対という態度は軟化し、最終的には山川家として捨松本人が承諾すればよいという結論に至る。

これをうけた捨松は、「閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案したのである。親の意向で結婚が決められていた時代において、まさに西洋的だった。

大山はもちろんこれに応じた。

捨松ははじめ濃い薩摩弁を使う大山が何を言っているのかさっぱり分らなかったが、英語で話し始めるととたんに会話がはずんだ。大山は欧州仕込みのジェントルマンだった。2人には親子ほどの歳の開きがあったが、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていった。

この頃アリスに書いた捨松の手紙には、「たとえどんなに家族から反対されても、私は彼と結婚するつもりです」と記している。

交際を初めてわずか3ヵ月で捨松は結婚を承諾した。

大山巌と捨松は、結果として似合いの夫婦であった。捨松は母としても、先妻の3人の子と、自分の産んだ3人の子供を育て上げた。

明治のスーパーウーマン大山捨松Dに続く。

明治のスーパーウーマン大山捨松B

2011年10月22日(土) 9時52分
明治4年(1871年)11月12日、「山川さき」こと「山川捨松」は横浜港からアメリカに向け船出した。

そして捨松が出発した翌日、同じ横浜港からスイスのジュネーヴへ向けて留学の旅に出るひとりの若者がいた。

その若者こそ大山弥助改め、後の大山巌だった。

結局捨松は、11年もの長き間にわたり米国に滞在することになる。

最初の滞在先は、コネチカット州ニューヘイブンのリオナード・ベーコン牧師宅。そこで4年近くをベーコン家の娘同様に過ごし英語を習得した。

ベーコン家には14人の兄妹がいたのだが、捨松より2つ年上の末娘が彼女の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンである。

アリスは父親の影響で、中学生のころから人種差別と闘い、黒人たちの教育に打ち込む女性だった。闘うアリスの姿を観た捨松は、帰国したら自分も日本で女子のための学校を作ろうと決意。

それはやがてアリスと捨松の生涯の夢となり、25年後、ふたりは一緒に留学していた津田梅子とともに、生徒数10名で女学校を設立することになる。

それが現在の津田塾大学である。

捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を卒業後、ニューヨーク州ポキプシーのヴァッサー大学に進んだ。ちなみに捨松は、この頃までに英語をほぼ完璧にマスターしていたという。

ヴァッサーは全寮制の女子大学で、ジーン・ウェブスターやエドナ・ミレイなど、アメリカを代表する女性知識人を輩出した名門校で知られる。

東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かない「サムライの娘・スティマツ」は、すぐに学内の人気者となった。

しかしそれにも増して、捨松の端麗な美しさと知性は、同学年の他の学生を魅了して止まなかったそうで、大学2年の時には、学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェークスピア研究会や、フィラレシーズ会(真実を愛する者の会)にも入会している。

捨松の成績はいたって優秀で、学年3番目の通年成績で「偉大な名誉」(magna cum laude) の称号を得て卒業。卒業式では総代の1人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行い、その内容は地元新聞に掲載されるほどだったという。

アメリカの大学を卒業した初の日本人女性は、この捨松である。

この頃、北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていたが、捨松は米国留学の滞在延長を申請し許可され、卒業後はコネチカット看護婦養成学校に一年近く通い、上級看護婦の免許を取得する。

そして捨松は、この前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せることになる。

明治のスーパーウーマン大山捨松Cに続く。

明治のスーパーウーマン大山捨松A

2011年10月21日(金) 2時07分
大山捨松(おおやま すてまつ)は会津藩出身で、旧姓は山川、幼名はさき
後に咲子といった。

8歳のときに起こった戊辰戦争では母や姉たちと共に会津若松城に籠城し弾雨の中で戦うことになり、弾薬運びや負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝った。

驚いたのは、建物内部に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄って、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐという「焼玉押さえ」という作業。
これも手伝って大怪我をしている。

近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に降伏した会津藩23万石はこの戦いで降伏し、陸奥斗南3万石に転封される。斗南藩は、恐山で知られる下北半島最北端の不毛の地で、3万石とは名ばかりで、実質石高は7千石足らずだったという。

藩士達の新天地での生活は極貧を極めた。飢えと寒さで命を落とす者が続出する中、山川家では末娘のさきを、函館の沢辺琢磨(最初の日本人司祭)のもとに里子に出し、その紹介でフランス人の家庭に引き取ってもらうことにした。

会津での戦争から3年後の明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した当時北海道開拓使次官だった黒田清隆は、アメリカに留学生を送り、未開の地を開拓する方法や技術など、北海道開拓に有用な知識を学ばせる提案をする。

アメリカの西部の荒野で、男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人の男女の姿をみた黒田は、留学は当初から男女若干名という当時では例の無い考えでいた。

黒田のこの案は、やがて明治政府主導による10年間の官費留学という大掛りなものとなり、11歳になっていたさきは、この留学に応募し合格。横浜港からアメリカに向けて出発することになった。

母が「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させた。

明治のスーパーウーマン大山捨松Bにつづく

明治のスーパーウーマン大山捨松@

2011年10月20日(木) 23時01分
旅行管理者検定の国内地理を勉強していた時のはなし。

国内地理は出題範囲が広く、求められる知識は自然や歴史・文化的建造物などの観光物件はもちろん、温泉、祭り、郷土料理、民芸工芸品、民謡等々・・・さらには、テレビや映画に出てくる物語の舞台やそのロケ地など、年々多様化する旅をつくるための知識、つまりそれぞれがヒモづくカタチでの知識が求められる。

あるとき、文学作品とそのゆかりの観光地をチェックしていたところ、タイトルの読めないのが出てきた。

「不如帰」

ん?

みなさん読めますか?

答えは「ほととぎす」。

明治の文豪、徳冨蘆花(とくとみ ろか)の代表作で、国内地理試験的には群馬県の伊香保温泉が舞台としてヒモづいてくる。

本来、試験だけ考えればそこまで知っていればOKなのだが、調べていくうちに、ついその背景まで気になって、いつの間にか雑学的な知識にまで時間をかけてしまう。

まぁ、こんな感じで色々な分野にヒモづいていくことから、覚えることにキリがないのも国内地理の醍醐味ではあるのだが。


伊香保温泉のとある宿。
三階の窓から夕景色を眺める二十歳前の美しい女性の姿があった。
彼女の名は浪子。
待つ相手は新婚の夫・川島武男(海軍少尉男爵)であった・・・

小説不如帰の内容は明治の悲恋モノ。

主人公浪子が子供のとき実母が死に、のちに英国に留学し何事も西洋風な継母がきた。聡明な浪子に継母はつらく当たった。やがて浪子は嫁ぐのだが結核のため幸せな結婚生活を引き裂かれた挙げ句、実家に戻るとまた非情冷徹な継母によって今度は離れに押し込まれ、最後は寂しくはかない生涯を終えるというあらすじなのだが・・・

色々調べているうちに、この主人公一家のモデルが、日本陸軍の創成期から日露戦争にかけて活躍した元帥陸軍大将、大山巌家だということが分かった。

巌の後妻である大山捨松(おおやま すてまつ)は、その文中に出てくる継母のモデルとして晩年まで誹謗中傷にさらされたという。

たしかに主人公のモデルとされる巌の長女は結核を発病するのだが、離縁を一方的に申し入れてきたのは、その夫と母親であり、悩む捨松を見るに見かねた友人が、嫁ぎ先に乗り込んで姑に猛抗議するほどだったという。

長女の看護をしたのは捨松自身で、わざわざ離れを建てさせたのも、本人が伝染病持ちであることを気兼ねせずに、自宅で落ち着いて療養に専念できるようにとの思いやりからだった。

捨松は大山の連れ子たちから慕われていた。
家庭は円満で、実際には絵に描いたような良妻賢母だったという。

ところが不如帰に描かれた継母が捨松の実像と信じた読者から誹謗中傷の投書を受け取ることも度々あり、捨松は晩年までそうした風評に悩んでいたという。

しかし蘆花からこの件に関して公に謝罪があったのは、不如帰の上梓から実に19年を経た大正8年、捨松が急逝する直前のことだった。

雑誌「婦人世界」で盧花は、「『不如歸』の小說は姑と繼母を惡者にしなければ、人の淚をそゝることが出來ぬから誇張して書いてある」と認めた上で、捨松に対しては「お氣の毒にたえない」と遅きに失した詫びを入れている。

ところで、この大山捨松という女性は、なんと日本初の女性留学生であり、日本の女子教育の向上に尽力した人であり、鹿鳴館の花であり、津田塾大学の開祖でもあるという、まさに近代日本を代表するスーパーウーマンだったのだ。

明治のスーパーウーマン大山捨松Aに続く。

日本橋べったら市2011

2011年10月19日(水) 23時02分
べったら市は、江戸時代の中頃から宝田恵比寿神社の門前で10月20日の恵比寿講にお供えするために、前日の19日に市が立ち、魚や野菜、小宮(神棚)などが売られたのが始まり。麹をべったりつけた浅漬け大根がよく売れたので「べったら市」と呼ばれるようになった。

【開催日時】 2011年10月19日(水)・20日(木)
【場  所】 東京都中央区日本橋大伝馬町、本町、堀留町




中野ブロードウェイで遠野探訪

2011年10月18日(火) 23時51分
昨日、商用で中野に行った時のこと。
ちょっと早めに着いたので、いつものサンプラザ側ではなくサンモール側からぶらり。

そしてブロードウェイ入り口を左に曲がろうとした時・・・

「おぉ〜!ブロードウェイが遠野になっとる!」

帰ってから早速調べてみたところ、岩手県と遠野市が一体となった復興向け観光PRとのこと。

岩手県が絡んでいるにもかかわらず、世界遺産登録の平泉ではなく、遠野というところが何ともブロードウェイらしい。

ところで、遠野といえば言わずと知れた柳田國男の「遠野物語」だが、最近では水木しげるのコミック版も出ていて、その縁で昨年の発刊100周年記念では、コミックに出てくるカッパやザシキワラシなどがオフィシャルキャラクターとなり、遠野の町は水木しげるの妖怪ワールド一色になっていた。

そういえば、ブロードウェイの2Fにある、漫画の殿堂まんだらけの古川社長はその昔、水木プロのアシスタントだったと聞いたことがある。

そんな縁も・・・んな訳ないか(笑)

取り組みは「遠野市と中野ブロードウェイとの里まち連携交流事業」と銘打ち、来年の3月いっぱいまで行われ、商店街に「永遠の日本のふるさと遠野」をイメージした広告やポスターを掲示するほか、遠野にちなんだイベントなども定期的に開いていくという。

こんなちょっとしたトピックも、教習所さんとの貴重なコミュニケーションネタですぞ。サンプラザウラの営業ご担当者さま。





観光パンフレットの特設コーナーも設けてあり、合宿免許パンフレットも置かれていた。
プロフィール
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  • アイコン画像 性別:男性
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2002年「ローソンの運転免許」立ち上げのメンバー。以来、常に営業の最前線で活躍。メーカー時代の経験を生かし、「ものづくり発想」を取り入れた合宿免許に関する様々な企画商品やイベントを考案。「合宿免許プロデューサー」として地域の特色やスタッフの個性を生かした企画に定評あり。合宿免許を通じた地域活性化を目指す。2015年1月、株式会社トリオワークス設立。

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